やましいたましい

音楽を中心に服、本、生活の話題など

油ギトギトのラーメンたべれない

わたしはもう油ギトギトのラーメンは食べれなくなってしまったのかも知れない。それはもう確信めいたものをかんじている。41歳。何かしら身体の変化は感じざるを得ない年頃なのか。でも何だか認めたくない、認めたくないなぁ。しかしそうなんだろうきっと。昨日食べたとんこつラーメンはうまかった。うまかったが、食べながらわたしは何となくおもっていた。「この油ギトギトははたして大丈夫なんだろうか」
その夜、急な胸騒ぎ、いや腹騒ぎを覚えトイレに駆け込み、下腹部の激痛に耐えながらわたしは自分を納得させるしかなかった。
「もうわたしは油ギトギトのラーメンには耐えられいカラダになってしまったのかも知れない」
じつはつい1週間前にもわたしは同じおもいをしている。
その日はある有名企業の講義があり、わたしはそれに参加していた。その企業はさすが外資系の企業だけあって講義も自社のアピールだけでなく、競合他社のネガティブキャンペーンもしっかり行っていた。わたしは、そのあたかも洗脳でもするかのような偏った講義の内容があまり好きではなく、「ふ〜ん」ってかんじで少々構えて聞いていた。確かに学ぼうという気持ちで参加したのだが、その企業の姿勢に疑問を覚え、講義を聞いてる他の方たちにも「この偏った考えのまま受けとめられたくない、洗脳されちゃいけない」と妙な正義感をもって望んでいたのだ。いわば講義という四角いリングにわたしはファイティングポーズをとって立ってた、いや座ってた。だからいける時があればわたしはすぐに突っ込もうとおもっていたし、もうすでにジャブはいくつか打ってはいた。
そんな時突然のごとく下腹部に激痛がはしる。ぼんやりと脳裏に浮かぶ昼間食べたとんこつラーメンの映像「油ギットリ、そこがいいんだよね」とわたしはスープまで飲み干していた。妙な冷汗が普段掻かないところからも出てる気がする。これはまずいことになった。ファインティンポーズをとりながらも、わたしは講義をしている講師の顔よりもなかなか進まない時計を見る回数のほうが確実にふえている。いまさらこのファイティングポーズの姿勢は崩せない。しかしその為には講師の発言は一言も聞き逃すわけにはいかない。でもまだこの講義はのこり60分はある。まずいよこれまずい。わたしは周期的に訪れる腹の痛みに耐えながらもなんとかその姿勢だけは崩さずにしていた。それで15分ぐらいは耐えた。しかし現実とはまこと非常なもの。確実に速くなってきている痛みのサイクルに耐えかねたわたしは、ついにトイレに旅立つ決心を固めた。意外とあっさり。もう講義とかそんなのどうでもいいもの。
出て行く際わたしも音楽好きのはしくれ、せめてヒップホップよろしくバックステップで意気に出ていこうとはおもったが、じっさいはそんな訳もなく、場を乱さないようにコソ泥のように黒子のごとく出ていったのは言うまでもない。
はたして、わたしは本当に油ギトギトのラーメンは食べれないからだになってしまったのか。人間年を取ると油をからだが受け付けなくなってくるというが、やはりそういうことなのか。しかしわたしはまだあきらめてはいない。わたしは単に軟弱になっただけかもしれないからだ。それならば鍛えればいい。からだに負荷をかけなければ筋肉だってつかない。「たかければ たかい壁のほうが 登ったとき気持ちいいもんな」とミスチルもいっている。油ギトギトのラーメンを食って食って食いまくればいつかついに克服出来るのではないか。わたしだってたかいところに登りたいんだ。ミスチルになりたいんだ。その為にわたしはいつか勝負しなければいけない。設定としてはだいたい休みの前の日あたりがいい。次の日大事故になるといけないから。そしていっきに勝負に出る。その日のためにあのラーメン屋の割引券はまだ捨ててはないのだ。





原曲がレゲエのカヴァーだなんてわからないくらいコリーヌは自分のものにしてるとおもう。と同時にいかにボブマーレーがすぐれたメロディーメイカーかを証明してる。いいカヴァーですねん。




Love Ep

Love Ep

休日

すずしい風がわたしが住む3階のリビングの窓から入ってきて、こげ茶色のカーテンを内側に大きくふくらませたり、波が引くように網戸にべったり張り付かせたりしている。昼間はバテるくらい暑いが夜は過ごしやすい。今がいちばんいい季節かもと思う瞬間もある。
窓からみえる街の景色、ぽつりと浮かぶセブンイレブンの灯り。ときどき車が通り過ぎる音と、時折りさらに向こうの方で電車の音がする。
竜巻があったり、突然雷雨になったり、いろんなものがいろんなとこにぶつかったり、世の中なんだか騒がしいが
夜は寝静まる。





扇風機変貌

扇風機を見に電気屋に行った。さいきん新しい発想の扇風機の宣伝をテレビでガンガンやってたからだ。節電もある。エコもあるし、今年は扇風機なんだなとおもい出かけてみると、びっくりするほど扇風機コーナーがフロアの幅を占めてた。結局わたしも含めてみんな踊らされてますね。それにしても扇風機なんか復活するとは思ってなかった。衰退していつかは消えてしまうんだろうなと勝手に思っていた。扇風機フロアにはそれ専門の案内がちゃんといて、慣れた口調で口先だけ動かしてた。
プラズマスター、除菌、空気清浄、充電、そして美肌など、およそ扇風機とは思えない言葉がならぶ。しかしいちばん驚いたのは価格だ。2,3万はあたりまえで、中には4、5万するものもあった。なんだかイッキに次元がちがうようにもおもわれ、でもほんとにそうなんだと思った。扇風機と言えど中身はもうぜんぜん違う。まったく違うものだ。なんだか数年前に電気カミソリでも似たような思いをしたことがある。洗浄機能やらなんやらが付きはじめて価格帯が2,3万にイッキに跳ね上がったのだ。たかが電気カミソリが何万もするのかよとはじめは驚いたが、すぐにライバルメーカーが同じ価格帯のものを出し始めたのでそのうちそれが普通になった。そしてわたしの感覚もそれが普通になった。慣れたのだ。慣らされるってなんかこわいですね。でも慣れるって感覚がもしなかったら、人なんかとっくにみんないないとおもう。
わたしは出来るだけ音のしない静かな扇風機を探してたので、あとはその情報だけ調べて立ち去ることにした。去り際にまったく人気の無い、かつてのいわゆる昔ながらの扇風機が集まってるコーナーを見た。値札を見るとやはり2〜4千円台だ。わたしはやはり扇風機ってのはそんなもんだよなと思いながらその場を去った。でもその感覚だってそのうちどうなるかもわからない。だいいち今の感覚だってどうかもわからないのに。
タワレコの視聴コーナーは、今回なかなか好みの音楽がいくつもあった。こういうのはめぐり合わせってのものがあるみたいで、いくら探しても好みの音楽がなかったり、かといえば視聴するたびにグッと響く音楽がありすぎて困ることがある。どうやら今わたしの好みの音楽は括りでいうとアコースティックなR&Bのようで、その視聴機で薦められてた音楽は全部わたしに引っかかってきた。なんだか決めつけられてるようで気分は良くなかったが、仕方がないかもしれない。わたしは音楽の趣味はとにかく多岐にわたってるつもりでいて、それがわたしが自負してるところでもあるのだが、最近はそうでもないかもだからだ。気がつけばスティーリーダンばっかり聴いてる。それはほんともう、取り憑かれたように聴いてる。

いろいろ聴いて、結局前から知ってはいたけど印象が変わって良かったので、Michael Kiwanuka(マイケルキワヌカ)と再発されたAl Green(アルグリーン)の昔のやつを買った。まだシングルしか出てないから買わなかったけどLianne La Haves(リアン・ラ・ハヴァス)は良かったな。ネクスト コリーヌ ベイリー レイとかPOPに書いてあったけど、コリーヌとはぜんぜん違ったけど、でも良かった。なんかビョークの前のバンドのシュガーキューブスをなぜか思いだした。ねじれかたかな。












Home Again

Home Again

Forget

Forget

いまの空気を叩きつけようとしてるソカバンの新作について

あまり好きじゃなかった。認めたくなかったんだとおもう。
前身の彼のバンドのデビュー作はまるでフリッパーズギターみたいだったし、世間に注目されて迎えられたセカンドはもろ「はっぴいえんど」だった。だからそれ以降も彼の音楽にはなにかある種「・・・っぽい」という印象がわたしには常につきまとっていた。ソロになったはじめの頃は、なんだかジョンレノンだろうなとおもったし「カフェインの女王」を聴いたときは、あまりのディアンジェロさに(意気込みの高さに)多少なりとも驚いたが、やはりわたしの印象は変わりはしなかった。
だから今回曽我部恵一BANDの新しいアルバムの「満員電車は走る」を聴いた時、もう何にも似てないんだなというおもいがして、それがまず驚いた。まったく失礼な話だ。彼はとっくに誰にも似てなかったんだとおもう。ただのわたしの偏見だったんだとおもう。今回の並々ならぬような姿勢がわたしのくだらぬ偏見をも軽くぶち破り鼓膜に突き刺さったんだとおもう。スタイルなんか関係ない。だたあふれるばかりの内なる言葉の有りようを、感情の赴くままに音楽にたたきつける。もう、ただすごく感動してしまった。わたしのくそったれな偏見はあと幾ついいものを見逃してきたら気が済むのだろうか。わたしは変われない。そうおもうと、今すぐ外へ駆け出してって街灯の下あたりでうつむきたくなります。
みんな忘れようとでもしてるのか。震災のこと、原発のこと。少なくともわたしの心にはそんな感じがあります。世の中の空気もそんな感じにおもえます。なんとなくやんわりとした罪悪感を抱きながらも、もう忘れてしまって無かったことにしようとおもっている。ソカバンの新作はまさにそんな空気を告発でもするかのようです。誰もいわない、でも誰もが感じてる今の空気を感じます。ロック音楽ってのは時に時代の代弁者ではなかったのか。敏感な表現者の感受性はもっと今回の震災やら原発の一連の出来事には反応するであろうとわたしは勝手におもってました。でも今のところわたしにそういう想いがビシビシ伝わってくるのは残念ながら他のジャンルの表現です。ロック音楽からは逆にそういう想いはあまり聴こえてきません。また元にかえって自分の歩みを進めているだけのように見えます。これもまたわたしのいつものくだらぬ偏見なんでしょうけど。
曽我部恵一は何とか叩きつけてやろうしているだとおもいました。せめてこの空気に抗ってやるんだとおもいが伝わってきました。わたしはその姿勢にグッときます。スタイルこそよく聴いてみれば60年代のプロテスタントフォークのそれのようでもありますが、今回はスタイルより気持ちが勝ったんだとおもいます。結局おもいが伝わる時というのは新しいとか古いとか、スタイルではないということをまたしても思い知らされました。


バイトの面接はだいたい
十分くらいで終わる
資格 性格 通勤時間
そう多分それがあたしのすべて

面接官さんおしえてよ
あたしが誰なのかおしえてよ


もうこの歳になると、面接されるというよりは、面接する側になることの方が多くなったりします。
わたしはあなたが誰なのか教えてあげることは出来ないが、もっとあなたのような人の話にも耳をかたむけようとおもいましたよ。






曽我部恵一BAND

曽我部恵一BAND

ジョン レノン再考



もう何回目のブームか分からないが、最近またジョンレノンを聴いている。
週末に北千住の駅ビルをウロウロしていた時に、どこかのショップからか流れてきたのを、たまたま耳にしたのがきっかけなのだ。あまりにも久しぶりで、はじめ聴いたときは、ああ知っている曲だとはおもったが、いったい誰の音楽なのかはさっぱり分からなかった。ほどなくジョンレノンの「 Watching the Wheels」だと気づいた時には、あまりの意外な答えに自分でも驚いた。なにしろいい曲だし、すばらしい音楽だとおもった。ジョンレノンというあまりにものビックネームだけに、逆にここまで客観的に評価出来る機会あったのは、むしろはじめてだったかも知れない。やっぱりジョンレノンはいい曲を作る。しかもいい声。さらにポテンシャルも高い。全くもって売れるわけですよ。なんかちょうビックネームに当たり前のことばかりであれですが。
わたしにとっての優れた音楽というのは、聴くたびにそのつど新たな魅力を発見出来たりする、ある意味1つの魅力ではない多面的な魅力があるものだったりする。ジョンレノンもやはりそういった面があり、わたしがこれまで幾度か聴きなおす機会があった時も、そのつどあたらしい魅力を発見したきた。前回のわたしのジョンレノンブームから、今回聴きなおすまで、どれだけ時間が経ったろう。結構な時間があいているわけですが、その間にわたしに起こった音楽リスナーとしての大きな変化は、ブラックミュージックを相当聴くようになったことである。それまでブラックミュージックのどっしり腰の入ったベースラインや、ぶっといグルーブなどは、どちらかというと神経質っぽいUK好きのわたしにとっては、むしろ敬遠したいかんじがあったが、いまとなってはどうですか、ぶっといベースラインやグルーブなどは、むしろそうこなくっちゃこまる。それじゃなきゃ聴けないっていうぐらいのかんじになってしまった。そんなブラックミュージックに完全に侵されたわたしの耳にも、今回ジョンレノンはバッチり響いた。かっこいいですよ。かっくいー。
ジョンレノンを聴きなおしてあらめておもうのは、歴史的衝撃作のジョンたま(ジョンの魂)や、ひまじん(イマジン)などの、精神的概念とはまた別に流れにある、一貫して続いている彼のブラックミュージック対する憧憬である。ちょうどビートルズホワイトアルバムあたりに確立してはじまり、それはダブルファンジーまでずっと続いている。音楽ファンとして、リスナーとしてのブラックミュージックへの愛情が自身の曲にあふれている。それはわたしが初めてジョンの音楽を聴いた時からずっと感じてた、ドラムの独特な音のプロダクションや、極めてモノクロなサウンドのイメージが、あの時わたしが異様にかんじてた雰囲気が、いまではすんなり理解できる。それはちょうど同じころ、白人がやるソウル、プラスチックソウルと呼ばれおもしろい地位を築いていたデビットボウイともまた違う、まさにジョンならではのサウンドを確立していたんだなと今更ながらもおもうわけです。やぱりかっこいいよ。マジで。
そんな気持ちでまた久しぶりにジョンたま(ジョンの魂)聴けば、ドラムのスネアから、ハットから、音の隅々まで彼のおもいが伝わってくるようで、最後曲「GOD」の彼の心の叫びとともに、わたしの心も爆死し果てるのであった。そんな至福の夜。




PLASTIC ONO BAND

PLASTIC ONO BAND

ダブル・ファンタジー ?ミレニアム・エディション?

ダブル・ファンタジー ?ミレニアム・エディション?

休日幻想

車の免許の更新に幕張まで行く。なかなか行くのが面倒におもっていて、ズルズル延ばしてきたが観念して行くことにしたのだ。やっつけるようにパパッっと済ませて帰ってくるつもりが、予想外の人の多さで(考えてみれば日曜だからあたりまえなのだが)、久しぶり面倒だわ、といろいろ考えた。検査の列に並ぶわたしの目の前には、ざっと数えても50人ぐらいはまだ人が待っていて、1人2、3分と考えてもわたしのところに廻ってくるのは・・・と、途方に暮れて同時にあきれた。それでも免許センターの従業員の方々は、そういう声が多いのか察しているのか、するどく手際がよくテキパキこなしていた。講習の担当の先生もおそろしく腰が低くて、申し訳なさそうにしてた。「あと何分で終わりますからね」というたぐいのことをしきりに言っていた。そのせいか予定よりも10分も早く講習は終わった。
新しい免許証を受け取るのに、窓口で名前を呼ばれて取りにいくシステムになっていて、呼ばれて取りにいく人をそれぞれ見ながら、いろんな人が世の中には居るんだなとわけのわからない感情が浮んだ。当然のごとくそのうちにわたしも呼ばれて取りに行く。もしかして、わたしのような人間が、呼ばれて取りにいくわたしを見て似たようなことをおもっているのだろうか。わたしは呼ばれた名前にふさわしい人間なのだろうか。とアホなことを考えてしまった。帰りの電車の窓から公団がえらく密集してる風景を眺めた時も、似たようなことを思った。あの団地の窓の一つ一つにはわたしの知らない人が猛烈に住んでいる。わたしはもう40過ぎのおじさんと呼ばれる歳の男だが、なぜだかいまだにこんな子どもじみたことを思うことがある。
帰りに乗った電車の終点が1つ手前の駅だったので、ひと駅ぐらい歩いてみるかと思い、線路沿いの道を歩いていたら、途端にその道が行き止まりになった。しょうがなく逸れた道がわけののわからない方向に向かっているうちに、なんだか迷ってしまった。迷ってるうちに、なんかもう永遠に着かないじゃないかと思った。



ザ・クラッシュの「ロンドンコーリング」が久しぶり聴きたくなった。もしかしたら今聴いたらすごくよく聴こえるんじゃないかと思ったからだ。ロンドンコーリングはアナログ盤で持っている。じつはちゃんと聴くのは何十年ぶりかも知れない。クラッシュはわたしが18から20歳ぐらいまでによく聴いたバンドだ。その頃はクラッシュをはじめ、パンクというジャンルの音楽をよく聴いていて、それ以外は聴いてなかった。いち時期はパンク以外認めてなかった。わたしがはじめてバンドを組んでコピーしたのもクラッシュだ。久しぶり聴いてみると、パンクというよりは、とてもしなやかで、味わいのあるポップな音楽に聴こえる。わたしの感性は、十代のそれとはまったく違うものだが、じつは今の方が、ロンドンコーリングはわたしには心地よく響く。それって素敵なことだと思わないか。
その流れでローラ・ニーロ、アルグリーンと聴いて、最後はムーディーマンをガンガンかけて終わった。ムーディーマンをはじめデトロイトハウスは、わたしが唯一聴けるテクノだが、なんのことないれっきとしたブラックミュージックだと思う。 デトロイトの闇とか、デトロイトゲットーの情景だとかいわれてるけど、野田 努はブラックマシンミュージックといってた。わたしにはそれがなんともピッタリな言葉だとおもう。










ロンドン・コーリング

ロンドン・コーリング