やましいたましい

音楽を中心に服、本、生活の話題など

SWEET 41 BLUES

職場の違う部署の若い男の子が、貰ったチョコレートを相当かかえてやってきたので、「それ、来月ぜんぶ返すの?」と聞いたら、「そうなんですよ」といってきた。律儀だよなとおもいつつも、「なんだかお歳暮みたくなってきたね」というと、「まったくです」と顔をクシャクシャにしてわらった。なんとも重苦しい笑顔だった。
ちょうどこの頃あたりにわたしの誕生日がやってくる。なんとなく来て、過ぎ去っていったかんじで、今年もまた実感すらわかないが、わたしは41歳になった。ちょうど一年前にわたしは似たタイトルでブログを書いたが、久しぶりに読み返してみたら、なんだか他人が書いた文章ようだった。言い訳じみてるのはけして今も変わらないが、こんなダメな大人になるとはおもわなかった。いや、かなりの綱渡りの人生で、よくやってるのかもしれない。よくぞ生きてるなともおもう。
わたしは去年家族を持とうと決めた時、まず変えていこう意識したことは、今まで使わなかった札をすべて切っていこうということだった。何となくだが、自分が今まで生きてきて、やれそうだけど自分の倫理観で抑えていたカードを全部切っていこういうことだった。それからわたしは、今まで以上に頭を下げ、根回しをし、ガマンをしたり、時にはどうでもいいような会社の正義を下の者にいって聞かせたり、順番を間違えないよう気を使いながら働いている。やってみれば案外得意だったかも知れない。今のところ予想以上にうまくまわって、それにお金もついてきたりしてる。「結局これかよ」とおもいながら、わたしはそれらカードをすべて切って、家族を養っている。でも、それはすばらしいことだとはおもわない。ただ、ダメな大人だなとおもう。何とかこれ以外でなんとか道はないかとずっと探してきたような気もする。だからどっかでおもっている。結局これかよ。
どうしても言えないことがあって、または、気づいてはいるが、うまく言える言葉が見つけられないことがあって、もしかしたら、それが自分自身じゃないかとおもう時がある。たやすく言えるいつもの言葉なんかより、それが自分自身の本質なのではないかと思う時がある。そしてそれをうまく表してくれるものがわたしにとっては音楽だったり、あらゆる表現なんじゃないかと思う。だからこそ、それらの表現にわたし達は心動かされ、ハッと気づき、時には涙してしまうのではないか。音楽で言えば、ライブなんかは、アーティストからの直接のやり取りに、時々そこでしか生まれない独特な感情を覚えることがある。向井秀徳の2006年ひたちなかでのこのライブ動画は、わたしは今まで幾度となく観てきたものであるが、みる度にこころ揺さぶられるものがある。大体夜中に酒でも飲みながらひとりで観ることが多いのだが。ここには他にはない2006年ひたちなかでしか鳴らされていない「自問自答」がある。これはただのライブ動画ではない。ここには魂がある。




週末の物欲〜溶解するわたしの感覚〜

週末の土曜日、妻と柏の大型ショッピングセンターに行く。店内の一角のとあるペットショップで足が止まる。ショウウィンドウ越しに、たらいのようなものに何匹か押し込められてるチワワに興味がいく。眺めていると、横から何かを抱きかかえた店員が現れる。「ほらぁ、かわいいでしょ」見ると、これまたとんでもなくかわいいチワワだ。万人が万人かわいいといいそうな満面の愛嬌、かわいいという字を辞書で引いたらこのコの顔があらわれそうな、そんな全方位的に好かれそうな面だ。どうぞといわんばかりに、店員がわたしに預けようとするので、わたしはそのチワワを抱きかかえるハメになった。何とも不器用に抱きかかえていると、矢継ぎ早にその店員の説明がはじまる。「このチワワはほんとに出来がいいんですよ〜」顔のバランス、鼻の色、おとなしい性格。なかなかこんないいコいないですよ。とわたし達にグイグイせまってくる。そのあまりに愛くるしい存在にわたしはおもわず聞いてしまう。「おいくらするんですか」「えっと35万です」・・・35万。そしてショウウィンドウの中にいるチワワは11万。そもそもわたしは、動物を買うということじたいあまり慣れてはいない。ペットショップを離れてからいった「夫婦でいるとターゲットにされやすいのよ」という妻のことばを尻目に、わたしは帰り際までその「35万の出来事」が頭の中でグルグル廻っていた。
動物を買うということ。今では当たり前なのかもしれないが、わたしにはやはり違和感がある。やはり慣れというものなのか。たとえば水にしてもそうだ。今では水を買うということは、ごくごく当たり前のことになり、わたしにしてもさすがにそうなのだが、わたしの小さい頃は水など売ってはなかった。水は蛇口をひねれば無限に出てくるものであり、買うということじたい何かバカらしいことのようであった。だから水が店の店頭に並ぶことが普通になった時でも、わたしはギリギリまでなんとか抗おうとした気持ちがあったし、お茶に関してもそうだった。似たような感覚があったとおもう。それがどうだ。いまではむしろ後味がしつこいジュースなんぞよりも、わたしが積極的に買っているのは水やお茶のほうだ。そういうことか。そういうことなのか。動物を買うということに関しても、単なるわたしの稚拙なこだわりということなのか。
若い頃はわたしはほんとにお金がなかった。だから若い頃ほしかった本物(一流のもの)は買えなかった。よく考えれば子どもの頃からそうだった。廻りが一流の物を身に着けたり愛用しているのを見ながら、わたしはそれには到底およばない廉価品で納得していた。それはもう、いたしかたないことだと理解していた。ただそのことからわたしはいつしか、一流の物などわたしなんぞには見合わないとでもおもうようになったのだろうか。単に貧乏性が板に付いたのか。わたしが20代に本気で音楽活動をしていたときも、廻りの音楽仲間がありえないローンを組んで何十万もするいわゆる本物のギター手に入れ夢中になっている中でも、わたしは5万ぐらいまででなんとか見合ったものをと、あらゆる中古楽器屋を駆けずり回った。端から一流の物など手にしようともしなかった。
「チワワを買ったとおもったら、オールデンなんかかるく買えるんじゃない」と妻がいう。オールデンとは、わたしが前から気になっている革靴のことだ。つい最近、日常使用していた革靴のつま先に穴があいて、どうしようかとおもっていたところなのだ。「次、買うとしたら、もうオールデンしかないとおもうんだよね」「じゃあ、買えばいいじゃん!」「いや、どうでしょう、それ、どうでしょう(長嶋風)・・」「丸の内とかに行けば売ってそうじゃない。今から買いに行こうか!」「いや〜どうでしょうか、う〜ん、どうでしょう(長嶋風)・・・」いまいち踏ん切りがつかない。買えなくはないが、贅沢だとはおもう。いや、わたしにしては非常に贅沢だとおもう。オールデンは物がいいだけに、そこら辺の革靴なんかより、びっくりするほど高いのだ。
若い時は、時間はあるがお金が無い。苦労してなんとかお金が入るようになると今度は時間がない。そして、いつしかようやくお金も時間も手に入るようになる頃には、もうセンスがなくなっている。その情熱すら失ってしまう。これは、才能のある芸術家の虚しい末路を、誰かが何かの本でいってたことだが、なんともさびしい話じゃないか。わたしは、人生の興味すら失ってしまう前に、なにかやり残したことをやらなければいけないような気もしている。それがこの一連のことだとは、ついぞおもわないが、最近とみにそうおもっている。それはもうとっくに遅すぎたことなのかも知れないけれど。
「よし、チワワもオールデンも買うぞ、ついでにマーチンのビンテージ(高級ギター)も買っちまうか、この勢いで」
と冗談めいていってみたら、かなり妻がのけぞっていたので
あわてて訂正しておいた。


             

ちょっと仕事のはなし 2 (了)

うわ〜落ちました、とりあえず。
あ、前回もいいましたが、今わたしの職場はJCIという国際的な資格を取ろうとがんばってきたわけですが、なんか落ちました。正確にいうと首の皮一枚つながって、3ヶ月後に再試験っていうことになったのですが。
まず予想だにしない部署が突然対象になったらしく、そこがボロボロだったみたいで、そこを中心にチェックがかなり入った。でもおしいってことで、再試験になったんですけど。
まあわたしの部署は最高の評価だったんですけどねー。「ノープロブレム」の生英語を3回ぐらい言わせたですし。
でも落ちちゃしょうがないですねー。
なんだかドッと疲れました。
まあいっか。ギター解禁。これからは弾きまくります。
とかいいつつも、なんかね。しんみりしちゃって、どーも。



ちょっと仕事のはなし

今わたしが勤めている病院は、JCIという国際的な資格というものをとろうと、ちょうど一年まえくらいから準備してて、わたしもこの職場に来て約2ヶ月間、ほとんどその為に動いてきたようなもので、それがついに今週から始まっている。各国の名だたるサーベイヤー5人が、院内をグルグルまわって、今週一杯で評価を下す。資格を得ればちょうど日本で3番目の病院になる。取ったからといって特に何がどうってことではないのだけれど、せっかくこの為に準備してきたわけだし、わたしもたかだか2ヶ月のかかわりだったが、出来ることは全部やった。ここまできたらやるしかないし、是が非でも取りたいわけです。しかも今回のサーベイヤーのリーダーが、元OPE看のナースらしくて、完全にうちの部署ターゲットになるだろうし、かなりきびしい展開も予想される。でもそんなの考えてももうしょうがないし、もうなんか、もうどんとこいってかんじ。
明日から一週間、5人の外人とたたかいます。








週末の所沢MOJOや下北沢のleteあたりでは、時折こんなすばらしい夜に出会うことがある。              少人数の箱の中、ほとんど生音で聴こえるくらいの空間で、こんな音楽を聴いてると、ほんっとに贅沢な気分になる。
教えたいような、教えたくないような。でもやっぱり教えたいような。そんな至福の味わい。

今年もよろしくね!

ま〜ゆれたゆれた、きょう午後2時過ぎの地震は。とくに流山市に越してきてからでは、いちばん大きい地震だったじゃないかな。さっそく我が家のCD棚の上に置いてあるブックスタンドに挟まれているだけの小冊子などは全部ふっとんだ。用意していた紅茶は中身だけ見事に外にまきちらされた。さいしょはそのCD棚(約1000収納)が倒れちゃ困ると、手で押さえながら様子をうかがっていたが、どんどん揺れがひどくなっているうちに、これはヤバいんじゃないかと、急に震災の時の記憶が脳裏をよぎった。わたしは震災の時は茨城県つくば市震度6弱という揺れを経験をしたが、わたしはあの時も同じように職場で倒れそうな棚を必死で押さえてた。自分でも、それ以上何をやっていいかさえも分からず、その棚を押さえながら、ひたすら揺れがおさまってくれるのを待っていた。わたしは何一つ教訓が全くいかされてない。かるく落ち込む程度だが。きっとわたしは、次の地震がきてもそうするのであろう。そして、いつか本当に強い地震がきた時も、わたしはまたしても虚しくも倒れそうな棚を押さえながら、なす術なくただ揺れが過ぎ去るのを待っているのだろう。情けなくも祈るように。
今年もブログは続けていきますよ。自分のマイペースで続けていこうとおもいます。はじめは特定の友達にむけてのブログでしたが、いまでは、星をつけてくれる方や、コメントをいただけることがおもいの他嬉しくて、またその方たちのブログを拝見して一喜一憂することが、楽しみにさえなっています。だからといって当ブログの内容が変わるということはありませんが。去年、当ブログを訪れていただいたみなさま。まことにありがとうございます。どうぞ今年もよろしくお願いします。
去年、Destroyer( デストロイヤー)の新作をはじめて聴いたとき、わたしはこのノスタルジックな音楽に、これはほんとに今の音楽なのだろうか。80年代の忘れじの名盤なのではないのだろうかと、一瞬うたがってしまった。しかしよく聴いてみると、これはまぎれもなく今の音楽だとわかる。構造がぜんぜん違う。どこかなつかしいようで、かつ新しい。かつてのLO-FIバンドが、成熟してAORまでいってしまったような。このメロウでチルアウトした音楽は、去年の年末のわたしの感性にかえって新鮮に響きました。雰囲気重視の名盤。



Kaputt

Kaputt

年末の所感

今年は激動の年だった。と、あちらこちらから聞こえてくるが、今年はわたしにとってもえらい激動の年だった。転職もした。住む場所も変わった。おまけに付き合ってた彼女と入籍までした(これすごいことですけどね)。この先のわたしの人生においても、今年はまさに激動の年となるのだろう。
それもこれもやはり、3.11の震災である。それは決定的だ。そのことで、これまでの生き方と、大きくわたしの気持ちが変わっていったのは間違いない。そして原発の事故である。理想とか、思想とか、現代社会のノイズだとか、終わりなき日常とか、ロジックや言葉など、全部バカバカしい。「この今ある生々しい現実こそが全てだ」と、これまでわたしの大部分を占めていた、あまっちょろいところが、一瞬全部吹っ飛んだ。間違いなく今までない感情を覚えた。この気持ちは後に、精神科医の安克昌さんいうところの、「リアル病」という診断におもいっきりあてはまってしまうのだろうが、たとえトラウマといわれようが、あの時の気持ちは、わたしにとっては大きな気づきであったと据えている。
今だいぶ落ち着いてきて、また前の現実の戻ればいい、または戻っていこうという動きと、いや、変わっていこうという流れに、世の中が分かれてるような気がするが、わたしの場合は転職先の仕事が忙しすぎて、毎日のニュースも満足に観ることなく、いわば社会から一定の距離をおいてこの二ヶ月過ごしてきた。が、なにかわたしの周りでは、なにかもっと、そんな出来事をもはやなかった事にでもするような、臭いものにフタはじゃないが、なるべく考えないようにするような空気すらかんじる。ここは千葉県流山市、話題になった放射能汚染がひどいホットスポットの街である。もちろん話題にはなる。「ホットスポットなんだよね、ここは」「駅前あたりがすごく高いらしいよ、こわいわ〜」
それで終わりである。特になにをするわけでもない。何もしないまま、またこの日常を続けるのである。何も出来ないってのが正直なとこなのかも知れないが、わたしにはなんとなく分かる。もっといえば、みんなどこか心の奥では、まさか大丈夫だろうと考えているからではないかとおもうからだ。それはわたしも含めて。それはなぜか。マスコミが大騒ぎをしなかったからだ。大手メディアや新聞が大々的に、スキャンダルのように報じなかったからだとおもう。大々的にマスコミが、毎日スキャンダルのように原発事故の有様を報じていれば、状況は、人々の意識は、今とはまるで違うものになっていた気がする。テレビや新聞への我われの依存度はこんなにも圧倒的なのだということを、わたしは今回まざまざと思い知った。それは今でも相変わらず続いてるとおもう。
音楽に対してのわたしの見方も変わったような気がする。災前、災後という言葉があるならば、あれだけ強烈であった、現代の歪みを抱えたかのような、神聖かまってちゃんの音楽も、わたしにとってはもう災前の音楽、今の空気には見合わない音楽として認識があったが、図らずも災後の音楽として、わたしに唯一響いてきた音楽も、秋口に出た、じつは、かまってちゃんの”僕は頑張るよっ”という曲だった。それは、時期的にはかなり前に作られた曲だったらしいが、タイミング的にここで出してきたってことに、すごく意味があるのだとおもう。わたしが先に述べた、ほんとに懸念しているこの、「流されていってしまう」という感覚を、何とか踏みとどまらせてくれる音楽は、今のところわたしはこれしか知らない。




わたしも頑張るよっ


8月32日へ

8月32日へ

あたらしい生活

千葉県流山市に越してきて、もう1ヶ月はたったか。最初はダンボールに囲まれた荒れ狂った生活だったが、毎日の大なたを振りながらの片付け作業のおかげで、だいぶ落ち着いてきた。オシャレ部屋になってきた(あの古い部屋がねー、い〜ぞ)。流山市は、ニュースでも話題にもなった放射能汚染がひどいホットスポットの街。知ったのは契約もほとんど済ませた最終段階で、まあそうとう愕然として、いっそ無しにしようかともおもったが、いろいろ考えてやっぱそういう訳にもいかんのです。あわてて個人用のガイガーカウンターをネットで購入して、相当かまえて乗り込んできたわけですが、住んでみるとまんべんなく放射線量が高いわけでもない。そして、なにしろみなさん穏やかに暮らしている。そんな中にいると、何だかまいっかって麻痺してくるわけです。やっぱ神経質になりすぎてるかなと。でもところどころほんと高いんですよね、南流山駅前とか。同じく話題に入ってたおおたかの森とか、柏とかも行ってはみたんですけど、やっぱりうちがいちばん高いみたい。倍ぐらいある。設定値より超えると勝手にアラームがなるしくみになってるんだけど、虚しくなるほどよく鳴ります。とくに駅前あたりでよく鳴ります。だからどうってわけではなく、結局どうするわけでもないんですけど。
久しぶりで、書きたいことは結構あるんですけど、まあ忙しいです。仕事の具体的なことはこのブログであまり書くつもりはなかったんですけど、それはそれは結構大変な職場で、これが「みんなが知ってる名だたる病院なのか」というぐらい、ちょっと危ない(わたしは病院で働いてます)。早いとこプロジェクト立ち上げて改善にあたらないとほんと大変なことになるとおもい、最近ちょっとかなり焦ってます。あと情報チーム作りたいな。人選はだいたい決まってるんですけど、やっぱ女の子ひとりぐらい入れといた方がいいかな華があって、とか、最後の最後に下世話な考えに翻弄されたりしています。まあそんなこともなく、早いとこすぐにやりますけどね。
ストーンローゼスの再結成うれしかったな最近のニュースでは。久しぶり本屋でロッキンオンめくってみたりして。わたしは「フールズゴールド」という曲ががいちばん好きで、だぶんあの頃あの勢いでアルバム作ったら、とんでもないのが出来てたに違いないと、たびたび夢想したりしてたんですけど、あいだあいちゃって結局ダメになっちゃったから、今回再結成ガゼン期待してます。バンド当時は曲の主導権は握ってなかったにしろ、イアンがバンドの肝だったっていうのは、ソロでもう充分わかったし、ジョンも大人になった。マニはこの為にプライマルスクリームを脱退までしてきてる。そしてなにしろこのバンドで、レ二のドラムがまた聴けるなんて、それだけでもなんてことでしょう!お互いいい歳なので、創作的なもので不安はあるけど、新曲とかガンガン作ってるみたいだし、ただの懐メロ再結成ではないみたいだから、そんなの本人達が一番嫌ってるわけで。もう期待してるわけです。



それと、ついにディアンジェロ動きだすみたいで、新作もほぼ完成したみたいと、またクエストラブがまたいってた。今年の初めも似たようなこと言ってて、結局出てないけど。ほんとそうだったら、こんな嬉しいことないんだけど、いつも出る出るといって、結局出ないという有様で、「でるでるサギ」までいわれてるくらいだから、いい加減わたしも、「またかよ」的なおもいもありますが、10年前に出たアルバム「VOODOO」をいまだに聴きつづけて、あきるどころか、これはどうしてこんなに好きなのか、いまだわからないほど謎で、こんな耐久性のあるアーティストもわたしは他には知らないので、しかも、去年、新作からリークされて、ほんの数日だけyou tubeにアップされた曲が(結局今年出たディアンジェロのコンピレーションに入って発売された)、ものすごいカオスな曲で、あんな曲ばかりのアルバムをなら、もう何年だって待ちますよってかんじなので、いーんですけど。でも完璧主義者だっていったらわかるけど、なんだかスライみたいになってなきゃいいけど。

http://bmr.jp/news/detail/0000012231.html




最近やたらとデビットボウイの”ヤングアメリカン”を気に入って聴きまくっている。なんか中毒のよう。ハンキードリーとかアラジンセインあたりと、あとロウあたりの頃しかしっかり聴いてなかったので、すごく新鮮で、特に日曜の朝方なんか、やたら心地よく響いて、繰り返し繰り返し聴きまくってます。

以上近況はそこまで。




ヤング・アメリカンズ

ヤング・アメリカンズ