やましいたましい

音楽を中心に服、本、生活の話題など

しぜんと七三分けになってしまう。

しぜんと七三分けになってしまう。このところわたしが常日頃かんじていることだ。風呂上がり、さして気にもぜず、頭をバスタオルで拭くだけで、ほったらかしておくと、ふと鏡を見る自分の姿におどろいてしまう。七三分けになっているのだ。朝、髪型をセットしてる時、いい具合のところに落ちつかせようとすると、あれ、七三分けなってたりする。どうやらわたしは七三分けが似合う顔になってしまったらしい。
七三分けは間違いなくおじさんの象徴だ。と幼い頃のわたしは頑なにおもっていた。オードリーの春日などは、ピンクのベストと七三分けで、自分を茶化したキャラクター作りをしているが、七三分けというのは、しばし滑稽な姿のモデルケースにも使われる。幼い頃のわたしにはそのおもいがもっとはっきりとあった。大人になっても七三分けにだけはするまい。あれをやってしまっては完全におじさんになってしまう。聖(セイント)☆おじさんになってしまう。たまにテレビで、大人でも七三分けじゃない人を見かけると、わたしもこの路線でいこう、針の穴を突付くようなせまい道だが、あらゆる関門をすり抜けてその道をいくのだ。と、わたしはそう誓っていた。
わたしは、そのようにしてこれまで七三分けとはまったくの無縁の人生を送ってきた。十代早々にして髪の毛をまっ茶っ茶にしロックバンドなんぞのものを組み、世の中に不満を吐き散らした。食事時なんぞは、かならず大盛りを早食いし、やぶれたジーパンで血気盛んな男のフリをして街中を闊歩した。それもこれも、七三分けの人生というもの避けるために行っていた行為なのだ。そう、わたしの人生の対極には常に七三分けがあった。七三分けにならないための人生。いい換えれば、わたしの人生は、常に七三分けに翻弄されつづけた人生だったようにおもう。
しかしわたしも気がつけばいい歳。とうとうライン入りのフレッドペリーのポロシャツも似合わない顔立ちになった、とおもっていたところだ。別段今だって、20代と間違えられるほど若く見られることもあるが、いえいえ、自分のことは自分がいちばんよく気づいている。いよいよわたしもそんな年齢になったのだ。むりくり若作りをしているおじさんがいちばん見苦しい。そうだよな。そうだろう。そろそろわたしも手ごたえのある人生を獲得しなければならない。七三分け。別にいいではないか。わたしの傍らには、ほら七三分けの世界が大手を広げてまっている。あとほんのちょっと。ほんの少しわたしが手を離しさえすればいいのだ。わたしには聞こえるよ。「七三分け。そこから見える世界ってのもあるんだよ」と。
つい最近のこと。訳あってわたしは履歴書用の写真を簡易ボックスで撮ったときのことだ。わたしはその出来上がった写真を見ておもわずのけぞってしまった。七三分けになっているのか。いやいや、それどころか、七三分けを通り越して、八二分けになっているではないか。いったいなんなんだわたしは。このさき九一分けとかあるのかしら。わたしはいったいどこに向かっているのだろう。誰かおしえてください。