やましいたましい

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ヤバイ音楽〜神聖かまってちゃん〜

わたしが10代の頃におもっていた、インディーズロックのイメージとは、今のそれとは違い、とてもヤバイ雰囲気をたたえたものだった。ちょうど当時あった音楽雑誌”フールズメイト”(ちっちゃい雑誌の頃ね)でよく扱われていた、ばちかぶりやら、町田町蔵ハナタラシじゃがたらなどのバンドから受けるイメージだ。ヤバイ雰囲気といっても、不良の先輩にからまれた時のような、いたいおもいをするんじゃないかという暴力的な怖さともまた違う。なにかこちらの理解の域をこえた、何をやらかすか分からないような底知れぬ怖さである。
人とのかかわり合いのなかで、もっとも大切なものは”距離感”である。われわれは日々、その距離感を無意識にでも測りながら、コミュニケーションをとっている。たとえば相手の名前を呼ぶとき、年上ならば尊敬をこめて、苗字に”さん付け”をして呼ぶのが妥当だ。しかしそれが相手にとって一番気持ちのよい距離感かといえば、そうともかぎらない。時には、年上にも係わらず愛称などで呼んだ方が相手との距離が近くなり、より親密になれる場合もある。それがお互いにとって一番気持ちのよい距離であるならば、その場合はそっちの方が断然いいのだ。わたしの数少ない経験のなかでも、一度や、二度ならずそういう経験をしてきた。距離をつかむということは、お互いを理解することである。相手を理解することは安心につながる。われわれは常に安心したい。安心した環境にいたいのだ。
距離感を測るというのは、もちろんわたしが今まで生きていきた中で培った、感覚のものさしでしかないのだが、たまに、ちょっとこのわたしでは理解が出来ない人と出会ったりすることがある。その場合、わたしのものさしはまったくもって役に立たない。おお、ノー!ホールドアップ状態である。もちろん、相手が常識がはずれているとか、性格が悪いとかそういうたぐいの話ではない。単純に合わないってことなのかもしれない。常識がないという話でいえば、わたしの方がよっぽど自信がないですから。とにかくその場合は、一番遠い距離をおきながら、様子を見つつ、なにか理解できることはないかと探したりする。しかし大概このパターンは、向こうは何も考えてないとが多いので、ほどなくあきらめることとなる。しかしそのあいだわたしはずっと不安のままだ。ひとつも安心できないのである。
先に挙げたバンドに対する、当時10代であった、おさないわたしが受けるイメージも、そういった底しれね不安だった。ライブ中に放尿をしたとか、脱糞したとか(下の話が多いね)、数々の奇行の逸話もわたしのイメージに拍車をかけていたのかもしれない。なにかわたしには理解しがたいものを持っていて、そしてわたしのことも理解してはくれないのではないか。そんなコミュニケーションレスなものを感じていた。わたしは当時熱狂的にはまっていたブルーハーツなどを追っかけて、それらのバンドまでついでに知ったのだけど、音楽の音も含めて、とにかくこわい、これは関わらないほうがいい。わたしには理解する必要のない音楽だとおもっていた。
今となっては、そのバンドのずぐれた音楽性は、個性的な意味でも理解するところが多々あって、特にじゃがたらなんかは、日本で唯一の精神性をもったファンクバンドじゃないかとおもうぐらい、非常にすぐれたバンドだったんだんなとおもう。かっこいいなー江戸アケミ。あのグルーヴに精神性がやどってるよ。なんかある、あのグルーヴ。そして、他のバンドで活躍してた人も、今では世界も認めるところで、たとえばのちに、人生の石野卓球は、電気グルーブとして世界的に評価されていたり、ばちかぶりの田口トモロヲなどは、役者やナレーターなどで活躍しているし、町田町蔵なんかは、町田康と名前を変えて、小説家として芥川賞などをとったりなんかしている。世間で何か役割をもっていたり、受け入れられていたりするってことは、やはりわたしの彼らに持っていたイメージというのはやはり間違っていたのだろうか。どうなんだろう。いったいどうなんだろう。あのえもいえぬ、理解しがたいような底知れぬ怖さ。しかし、わたしがいちばん恐ろしかったのは、単純に、”理解しがたい”ということではない。そのわたしが理解しがたいものを彼らは”本気でやっている”というところだったのだ。

わたしが、このまだデビューもしていない若手のバンド”神聖かまってちゃん”の動画を観たときにはじめに感じたのは、もう何十年ぶりにきたあの不安である。長いこと味わったことがなかったあの不安である。それは音楽性とかではない。むしろ音楽性は特に目新しい何かということはないとおもう。しかし、このフロントマンのボーカルの子は、例にもれず、またしても本気である。間違いなく本気である。わたしはほんとに不安になる。底知れぬ恐ろしさを感じるのだ。そこが、わたしがどうしようもなく魅力的なものに感じるところだ。
その魅力的なところをわたしは”才能”という言葉に置き換えてもいいんじゃないかとおもうのだ。










「いかれたに〜と〜」
圧巻です。


友だちを殺してまで。

友だちを殺してまで。