やましいたましい

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アイ ドント ビリーヴ ユー

プルトニウムは食べても大丈夫らしい。
「飲み込んで胃や腸に入った場合でも、ほとんどが排泄されて身体の外に出てしまいます。プルトニウムが原因でがんになったことは一件もありません。プルトニウムが人体に影響を与えることは考えられません」
こないだテレビでいってた。これ信じる人がいるのかな。
”アイ ドント ビリーヴ ユー”
依然として原発の問題は深刻な状況が続いている。それなのに、そんなことですら、なんとなく慣れていくようなこの不思議な感覚。穴が開いていた。ヒビが入っていた。水が漏れた。海に流れた。そしてなぞの煙。そのわりに外に排出された放射能に関しては依然として安全と言い続ける。日本の基準は厳しいと。それを下回ってるから安心だと。低濃度の放射能物質って、基準値の1000倍のどこが低濃度なんだろうか。上杉隆の言っていることは、地上波のテレビで言っていることのあまりの温度差の違いに、極端すぎるという意見もあるが、こういうときは、わたしは少し極端すぎる程度でちょうどいいとおもう。なにしろ死んじまったらみんなおしまいなんだから。
今回のこの原発の問題でなにしろはっきりわかったのは、テレビから流れる情報だけが、本当のことではないということだ。いやむしろいかに操作され、都合のいいようにねじ曲げられていたか、それだけははっきりわかった。もう情報が錯綜しすぎて、悲しいかな自分で判断するしかないけどみたいだけど。
4月6日に行われた鳩山由紀夫前首相勉強会での話は、わたしは、これはある意味事実として受け止めている。これこそいっさいテレビなどでは話題にすらされないけれど。


4月6日 鳩山由紀夫前首相勉強会


ついに原発から40キロ離れた福島県飯舘村にも避難勧告が出た。理由は長く暮らしていくと積算の放射線量が高くなることが予想されるとしてのことらしい。 つい2週間前にIAEAが勧告を出したときは、政府は、日本には日本の基準があると突っぱねたばかりなのにだ。積算の放射線量が高くなることなんて、2週間前だって分かってたことなのではないのか。飯舘村のみなさんの心情を察するに、これは政府は土下座しても足りないのではないかとわたしはおもう。政府の淡々と伝える口調に非常に怒りをおぼえるよ。そして昨日、福島第一原発の事故がチェルノブイリと同じレベル7に引き上げられた。それも以前から分かっていたことらしい。この場におよんでも懲りずに言い訳は忘れない。「それでも放出された放射能物質はチェルノブイリの10分の1の量ですから」
それは今はそうなのでしょうよ、今はね。

”アイ ドント ビリーヴ ユー”

昨日久しぶりに納豆みたな、スーパーで。カップめんも、菓子パンだって、もう目一杯並んでる。テレビをみれば、見慣れたタレントがいつもの番組をやっていて、いつものようにはしゃいでる。どんどん日常がもどってきている。おもしろかったなぁ、めちゃイケSPの東京スカイバカ。昨日やってたさんまの「恋のカマさわぎ」なんて、腹がよじれるほど笑った。さんまでこんなに笑ったのは初めてとおもうくらい楽しかった。なにか原発事故が、チェルノブイリと同じレベル7の事故のほうが、夢の出来事のようにもおもえてくるくらい。
わたしは、テレビに出てくる御用学者のいう「安全です。ほとんど影響ありません」の言葉とともに、みんな何か不安でいることにも飽きてきているのではないかとおもう。いくら喉元にナイフを突きつけられていても、殺されないという日々がずっとつづけば、そのことですらいつしか人は慣れていくのかもしれない。わたしの職場でも、もう原発の話などほとんどしなくなった。なにかの拍子に話題になっても「ああ原発、ありゃもうだめだ」それで終わってしまう。それで終わっちゃダメでしょうといいたいとこだが、いたしかたない。結局みんな、わたしも含め、だからどうなってしまうかなんてわからないのだ。分からないことは、もう考えないって雰囲気があるのは事実だし、もうほんとに飽き飽きしてるのだ。メディア戦略大成功ってとこなのかもしれない。
考えないようにするのだっていいとおもう。テレビをみておもいっきり腹を抱えて笑うのもいい。外においしい物を食いに行ってパッとやるのだって、自粛して経済が冷え込むよりは、ずっと被災地のためになるのではないか。花見だってすればいいとおもう。わたしも変なガマンなんかせず、そうしようとおもう。

しかしわたしは忘れはしない。

「安全だ、安全だ」といいながらも、日々あきらかになる現実によって、ことごとく覆されていくこのプロセスに、信用するところなんてどこにあるのだろうか。

”アイ ドント ビリーヴ ユー”
”アイ ドント ビリーヴ ユー”

わたしは、こころの奥に常にこの警笛を鳴らしている。
わたしは、まだまだこのわたしの中にある”不安”を、みすみす明け渡す気などさらさらないのだ