やましいたましい

音楽を中心に服、本、生活の話題など

自由っていいね

日曜日、浅草で友達と会った帰り、TX(つくばエキスプレスね)の電車の中、わたしが座っている席の通りをはさんだちょうど向かい側の席に、ちょうど3,4歳くらいの女の子がちょこんと座っていた。まるで奈良 美智の書く女の子みたいだった。
ちょうどこんなかんじ

わたしは子供を見ると、つい親御さんたちの目を盗んで、わざと変顔を作ってみせたりして、子供達の反応を見たくなる衝動にかられる。なぜだか。ここ深く追求してないですけど。だからその時も例にもれずやってみた。しかしあれ!今回はいつもと違う。おかしい。ふつうなら、わたしの変顔を見ると、だいたい興味をそそられ注目してくる子供や、挙動不審で固まってしまう、もしくはゲラゲラ笑うなどのなんかしらの反応はあるはずなのだ。しかしその女の子はとくに何の反応もない。
終始こんなかんじだ。

色即是空。なんですかこの虚空をみてるかんじ。たしかに方向としてはわたしの方を見てはいるようだが、これ、見てないでしょう!はやくも3,4歳にして悟ってしまったのか。いや、もしかして足りなのではないか。わたしの気合が。あの小森純くらいの、我をわすれるくらいのメガトン級「変顔」でなければ通用しないのではないのか。しかしそれはまずい。これ以上大げさにやると、親御さんに気づかれてしまう。わたしはホイホイと変幻自在の変顔を、サービス精神旺盛にくりだしてはいるが、親御さんに気づかれた時の対処は、何一つ考えてないのだ。わたしはしばらく考えあぐねていたが、あきらめて、また読みかけの本のほうに目をやろうとした。その瞬間だった。今までだまってわたしの方を向いていた女の子が、なにか動いたようなかんじがした。見てみるとなんと、その女の子はおもむろに後ろにのけぞったのである。なんかちょっとブリッチみたいな格好になったのである。
なにしろ電車の座席でブリッチである。そんなこと誰がおもいつくだろう。ひとつとなりに座っている、おにいちゃんらしき子が、ずいぶん前から目の前の座っている親御さんに注意を受けるぐらいはしゃいでたので、さほど目立ちはしなかったが、わたしは十分びっくりした。そして、起き上がってもとの姿勢に戻り、ふたたび見る女の子の顔はわらっていた。わたしを見ながらわらっていた。
やられたー!わたしの変顔に対する返答なんだね。アンサーリアクションね!完敗だよ。いや〜自由なかんじがするよ。発想とか。自由っていいね!わたしもやりたいなー。電車の座席でのけぞってブリッジやるわきゃないけどね。気持ち的に自由ってことね。
まあこんなかんじ?


いや、こんなかんじか!



「もっと自由になっていいんじゃない」 そんなメッセージを受け取った。もっと考えを楽にね。気持ちも楽にいくってことね。そうしないと、まあうまくいくもんもいかなくなるからね。でもわたしは座席でブリッジはやらないよ。似合わないからね。そんなことをして様になるのは、キミらぐらいの年までだよ。もし、わたしのような大人が本気で電車の座席でブリッジでもしようものなら、かわいいどころか、辺りは途端に凍りつくだろう。まるでエクソシストのブリッジ少女の惨劇のように。考えただけでもおぞましいね。そこら辺はこころえてる。


わたしは去年の夏、持ってるポロシャツの中で、いちばんのお気に入りで大事にしてたものを、あっさりリサイクルに売った。理由はかんたん、もう似合わなくなったからだ。わたしは歳のわりには、ずいぶん若く見られるほうだし、自分でも自負していた。顔だって10年前とはほとんど変わってないくらいにおもってはいたが、しかし少しづつでも年老いているのだろう。わたしはある日、いつものようにそのお気に入りのポロシャツを着て出かけようと、一瞬鏡で確認をしようとしたところ、その派手なポロシャツに、わたしの顔のあまりにも似合ってなさ加減に愕然としたのを覚えている。もうわたしの顔が若めのポロシャツには対応出来なくなってしまったのだ。老けたんだなと実感した。まあ嘆くことはない。人にはそれぞれ年相応ってものがあるから。
その女の子だっていつか気付くだろう。もうわたしはブリッジなんて似合わない歳になったということに。歳に似合わないことをするってことは、なんとも恥ずかしいのだ。またそこで、なかば強引に振り切るってこともまたありだけど、とにかくそういう岐路には立つんだろう。わたしは社会性ってのはそうやって身についていくのだとおもう。