やましいたましい

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やったじゃん賢太!〜西村賢太、芥川賞受賞によせて〜

数年前に初めて観た、新宿で行なわれた豊田道倫のライブ前の異様さはおもしろかった。
なにしろライブ前の雰囲気におどろいた。ファンに読書家が多いのか、みんな一様にライブハウスの暗い薄明かりの中、文庫本などの本を読んでいるのである。6割以上はいたとおもう。わたしもライブハウスは幾度となく足を運んだことがあるが、あんな光景ははじめてだった。あの独特な雰囲気のあるライブハウスで、約半数以上の人が読書にふけっているという異様な光景をいったいなんと言い表せばいいのだろう。とにかくわたしはその雰囲気がおもしろく、しばらく傍観者のごとくその場を楽しんでいた。
いちばん前に座っていた大学生風の男に、ちょうど今入ってきたばかりの、知り合いらしき、それもまた大学生風の男が近づいて軽くあいさつをする。そして「例のあれ持ってきたよ」的なジェスチャーをしながら、その男は背負ってたリュックの中からなにかを取り出そうとする。先に座っていた男も、それが何なのか伝わったのかそれに答えて感謝の意をあらわす。リュックの中から出てきたのは一冊の本だった。わたしはその本を見てしばらく息が止まるほどおどろいていた。このライブハウスの薄明かりでもすぐにわかった。西村賢太の「暗渠の宿」だ。わたしは西村賢太を読んでいるなどという知り合いはまわりにはいなかったし、それを共有してる仲間がいるというのは何かうらやましかった。なぜなら西村賢太は、けして人と共有して喜ぶようなたぐいの作家ではないのだ。酒、女、どうしたら女に取り入れられるようになるかという浅ましい考え。挙句の果てに暴力。どうしようもないダメな男。つまり作者自身の私小説。自堕落な美意識というくだらない方向ではなく、またあまりにもダメすぎると聖性をおびてくるなどというオチでもない。ただひたすら自分のダメさ加減を簡潔な文章で淡々をつづっていく。「こんなにダメな人いるんだ」とおもいながらも「なに気取ってんだよ、おまえにだってそういう部分あるだろ、おまえだってそういうヤツなんだよ」と告発されているような、触れられたくないところをえぐられてくるような、自分の恥部をさらけ出されるような作家なのだ。しかしなにしろいちばんわたしがおどろいたのは、じつはその時わたしは持っていたのだ。その本を。わたしのカバンの中にはじっさい西村賢太の「暗渠の宿」があった。図書館で借りてたやつだけど。行きの電車の中で読んでた本だったのだ。
わたしは気持ち的にはその時今すぐその大学生風の男に駆け寄りたかった。カバンの中からその本を取り出し、「おい、その本わたしも持ってるよ」「わたしも西村賢太すきなんだよ、おい」と興奮しながら。しかしわたしはそれをしなかった。見ず知らずの人に声をかけるというのはどうかというのもあったが、そのわたしが持ってた賢太の本は図書館で借りたものだったし、そのおもいっきり図書館のラベルの貼ってある本を見られながら「そんなに好きならなんで買わないわけ?」とおもわれるのはどうにも恥ずかしいとおもった。だからやめたように記憶している。そうでもなかったら行ってたような気もする。わたしにはそういうところもあるからだ。でも行かなかった。行こうが行くまいが、このどうにもくだらないところで躊躇してしまうようなダメなところが、わたしにはうんざりするほどあります。
今回の芥川賞の発表で、西村賢太の名前を耳にした時、わたしはおどろきと共に、何か胸のすくようなおもいがしてうれしくなってしまった。「やったじゃん賢太!」とさけびたくなった。まったく係わり合いはないですけど。その後の記者会見の発言のユーモアさと彼の境遇に、マスコミとり上げ、2chでも相当もりあがっているみたいだが、つまるところわたしの盛り上がりの実もそれとたいして変わりはないのだろう。しかしたった一つのやり方しか出来ない不器用な作家が、報われる瞬間ってのはすごくいいものじゃないか。なんかもう一回いいたいよ。やったじゃん賢太!
今回の芥川賞の二人は、すごく対象的だとおもう。新雪にザクザクとあたらしい足跡をつけていくような朝吹真理子に対し、一方は俗にまみれてまみれて、まみれた先にユーモアまで勝ち取って突き抜けた西村賢太。ひさしぶりにワクワクした。買おっかな。
西村賢太が敬愛する作家、藤沢清造の一句
       なんのその どうで死ぬ身の一踊り
わたしが追い込まれたときにおもいだす一句です。

今回、豊田道倫のライブのことは書かなかったのですが、なんか西村賢太と共通するとこあるなとおもったりして。