やましいたましい

音楽を中心に服、本、生活の話題など

自転車に乗らねば

それにしてもこのところほんとにいい天気で、カーテンを開けると、空には雲がちらほら切れ長に点在するだけで、さらに向こうには富士山がクッキリみえる。あの富士山のキリッっとした感じは、普段何気なく過ごすわたしの日常とはあまりにもかけ離れてるような気がしてならない。なんだかまわりの景色ともあってないような気がするしね。日常に突然あらわれた絵はがきのような虚構。わたしはその絵はがきをもっとみるために、ベランダに乗り出してみる。
こちらはこんなに天気がいいのに、わたしの実家がある山形県は、一晩で1m近く雪が降ったらしい。そして実家の車庫が、積もった雪の重みで屋根が真二つに割れ崩壊した。おやじの車は屋根がへこんだらしい。いったいどのくらいへこんだんだろう。おやじの説明ではぜんぜん分からなかった。「修理しないの?」とわたしが聞く。「なおすよ」「いつ?」
「まあ、そのうちな」
でたー、「まあ、そのうちな」 おやじがその言葉を言うときは、まったくその気がないときだ。説得して、春くらいまでには何とかするとこまではこぎつけたが、ほんとにやるかどうかはわからない。もしかして自分でやってしまうかも知れない。それはキケンだ。なにしろ説明書も読まないイメージだけの完全自己流なので、まさにクオリティの低い仕上がりになってしまう。わたしはそういう場面を何度もみてきた。いつだかホームセンターで買ってきた組み立て式の棚は、いつ完成するとも知らない状態で迷宮入りになっていたし(わたしが割って入ったときはオブジェみたいなものになっていた)、車のキズ直しなんかは、似てるというだけで同じ色を使わなかったので、何とも継ぎはぎみたいな結果になってしまった。だいたいすべてがアバウトなのだ。
でもしばらくはやらないんだろうな。動けばいいとおもってるとこあるからな。雨が降ったら水でもたまるのだろうか。いやだねそんな車。考えてもみてほしい。すれ違った車の屋根に水溜りができていたら。さらに考えてほしいよ。信号待ちで、偶然隣り合わせた車の屋根に水溜りができていたら。そしてゆっくり窓が開き知り合いが手を振っていたら。
わたしが東京で暮らしていた十数年間、わたしのもっぱらの足は自転車だった。もちろん東京の生活の基盤は電車であるし、わたしも通勤には使っていたが、その駅までの道のりはやはり自転車だった。一時、電車では交通の便が悪い職場先の時があり、わたしはむりくり地図で距離を直線でひっぱり自転車で通っていたときもあった。通ってみれば何とかなるもので、3、40分かけて毎日通っていたとおもう。とにかく自転車通勤というのはモロに天候の打撃を受けるもので、どしゃ降りの雨のなかも、台風の中も毎日通った。まあそんなときは職場にたどりつくまででもうボロボロ状態なわけで。結構ハードな毎日だったかも知れない。そんなわけで、わたしは自転車で可能な限りどこまでも行ったし、なんとか行ける吉祥寺やら国分寺、国立までも足を延ばした。わたしの生活の傍らには常に自転車があったとおもう。
東京で暮らしてる間、わたしは車に乗らなければと積極的になったことは正直ないが、車を所有するというあこがれはあったとおもう。車を持っているということは、なにか大人であることのステータスの一つだとどっかでおもっていたのだ。だからなのか、わたしはずいぶん大人になってからのこの自転車生活の毎日に、いささか違和感を感じていた。なにか、自分がおもう大人とは違う感じがしていたのだ。仕舞いにはいまひとつ自分が大人になりきれていないのは実はこれなんじゃないかとすらおもったりもしていた。
しばらくしてわたしは仕事を変え、その仕事の都合で東京を離れることとなった。そこの生活の基盤は車だったので、おのずとわたしは車を所有するようになった。このことでわたしが大人になれたわけはこれっぽっちもないですが、わたしはこの車のある生活がわりと好きで、あちこちドライブに出かけている。そんなこんなでもう4,5年たった。ついこの間、車で東京の三鷹の方に行く機会があり、わたしは思い切って昔住んでた場所まで足を運ぶことにした。わたしが住んでいたアパート。わたしが歩いたり自転車で通っていた道を丹念に車で辿った。その時の気持ちったらなかった。まるで凱旋帰国したような感慨深い気分だった。「オレ、ここ歩いてたんだよね」「オレ、ここ自転車でよく通ったなぁ」わたしは何度も一緒に行った同乗者に言った。大人になった気分を味わってたのかもしれない。なんだか誇らしい気持ちだった。あれちょっとくどかったね。
ただわたしは今の、車のある生活は非常に満足しているのだが、どうも最近ちょっとおかしいのである。階段を2階、3階とあがっただけでくる身体のバテ具合、ちょっと走っただけで途端にくる体力の消耗。これは単に年齢の衰えからくるだけでは考えにくい急激な身体の衰え。家で筋トレとかはしているので筋力が衰えたわけではない。持久力がなくなったのだ。それにあっちの方の持久力もここ何年かで急激に衰えはじめた。これは痛い。これは非常に痛い。そこではたと気づいたのである。わたしは「自転車に乗ってないからじゃないか」ということに。
かつてのわたしの自転車の乗り方というのは、まあ普通とはちと違う感じだった。かなり速いのである。加えてコーナリングの切れ味、細い道の適切なすり抜け、危険を察知した時のすばやいおばちゃん降り。すべてにおいてわたしは完璧な自転車マスターだった。先に3,40分で通勤していたと書いたが、それはちょっとした謙遜で、実は30分かからずにいつも行ってた。23分という最高記録もたたき出したこともある(追い風参考)。そんな毎日をキープオンし続けるにはそれなりの体力が必要だったはずだ。知らず知らずのうちにわたしは自転車により基礎体力が維持されていたのではないか。加えて自転車生活というのは季節の移り変わり、街の風景などを肌で感じることが出来、当時バンドをやり、曲なんぞを書いていたわたしにとってはすばらしいイマジネイションの源泉だった。今はそれですらからっきしなのである。考えてみると自転車ってのはいいことづくめじゃないか。そうだとすれば、今すぐ始めなければいけない。自転車生活を再開しなければいけない。
ここまでさんざん書いておいて言うのもアレだが、わたしに本当に自転車生活を再開出切るのだろうか。12月の寒空の下、久しぶりにみる干からびた干物のようになった自転車を前にしておもう。まずペチャンコになったタイヤの空気からやなければいけない。わたしは自分に問う。「本当にやるのか」 「やるさ」 「いつから?」 いつからって・・・
「まあ、そのうちな」


コリーヌ ベイリー レイの新作が来年早々出るそう。今から非常に楽しみです。



コリーヌ・ベイリー・レイ

コリーヌ・ベイリー・レイ