やましいたましい

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ビスケットのうた

今日は、NHK BSの俳句王国で、紗希さんの勇姿を観ようとおもったらやってなかった。かわりに、なにか、うたのおねえさんらしき人が公開録画的な会場で、童謡「ぞうさん」をきれいにうたいあげていた。まあ誰しもが知っている、ちょう有名な曲だがこうである

ぞうさん、ぞうさん、おはながながいのね、そうよ、かあさんもながいのよ


ぞうについてのただの紹介である。
これはなにか、こどもの質問にお母さんが答えているシチュエーションなのかはわからないが、まんまである。なんでこんなうたが成り立つのであろう。こんなんでいいのか。とわたしはおもった。この作者はシンプルに、ごくふつうに書きあげている。「これはセンスだよなぁ〜」とすこし考えてしまった。この作者はこの詞を書きあげたとき、こうおもったのだろうか。
「ちょうさいこう」

次にそのおねえさんは、続けざまに、またも有名なビスケットのうたをうたいはじめた。

ポケットの なかには、ビスケットが ひとつ、ポケットを たたくと、ビスケットは ふたつ、もひとつ たたくと、ビスケットは みっつ、たたいて みるたび、ビスケットは ふえる

ここではたと気づいたことがある。たぶん、おねえさんがあまりにも高らかにうたいあげていたからだろう。なんと、ポケットをたたきながらビスケットを粉砕してくうたにも聴こえるじゃないか。そうなるとこのうたは途端に現実味を帯びてくる。たたきかたによってはビスケットは2枚、3枚、無限大にふえるだろう。しかし、ほんらいこのうたは魔法のポケットという夢のあるうたなはずだ。しかもそのうたは歌詞の内容からして、つぶやくようにうたうのがちょうどいい感じなはず。しかしおねえさんは高らかにうたいあげる。ひろい会場の隅々にまで届くように。そして会場にいる子供たちもそれに呼応するように大声をはりあげる。会場ぜんたい大合唱だ。やはりわたしは、このうたが大合唱になればなるほど、ビスケットを粉砕するうたに聴こえてしまう。そしてわたしはいらぬ心配をしてしまう。もしや、この会場で大合唱している子供の中にも、そうカン違いをしている子供がいるんじゃないか。好奇心旺盛な子供のことだ。すぐにそれは実行にうつされることだろう。
はだかのビスケットをおもむろにポッケにいれる。そしてうえからおもいっきりたたく。ビスケットは幾枚かにわれる。そして、たたくたびにビスケットは無限大に粉砕されてく。その子供は、まさにうたのとおりだとおもうだろう。しかし同時に間違いなくこうもおもうにちがいない。
「ポケットきたない」
そうなのだ。ポケットには夢がつまっているどころか、みるも無惨になったビスケットがつまっているだけなのだ。そして最終的にその子供はこうおもうのだろう
「ビスケットきらい」
子供達にビスケットがきらわれる。これは由々しき事態だ。なぜならビスケットは夢のあるお菓子だからだ。子供にとっては、三大夢のあるお菓子のひとつといってもいいぐらいの位置にいるものなのだ。ビスケットの人気が落ちたからといって、そうそうすぐに代わりなんてないだろう
「ビスケットダメっぽいんで、まあ代替で”もつ煮”ってことで」
ふざけるのもいい加減にしてほしい。そんなわけにはいかないのだ。なぜならもつ煮には夢なんかない。どこをとったって現実しかないのだ。もつ煮には週末の大人達を癒す、大人のロマンしかつまってないのだ。だいいち、もつ煮なんかお菓子でもないじゃないか。
いよいよビスケットピンチじゃないか。わたしはすこし心配なってきた。ビスケットがんばってほしい。なぜなら、ビスケットは子供が食べるのが相応しいお菓子だとおもうからだ。かわいい娘の買い物袋からは、だいこんではなくフランスパンが出てほしいとのおなじように、やはりビスケットは、わたしのようなおじさんではなく、子供がほおばってこそとだとおもうのだ。

やはり、うたには、作り手が作ったときに込めた熱というか、温度というものがたぶんあって、そこを間違えると、とんでもない誤解をまねくおそれがあるんじゃないか。そこすごくだいじなことじゃないか。とわたしはせつにおもうのである。
もし、ビスケットが本当に子供達にそっぽをむかれてしまったら、わたしのかわいい甥っ子、姪っ子にだけには、そっと教えてあげよう。

「じゃあ、パンと蜜をめしあがれ」 



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