やましいたましい

音楽を中心に服、本、生活の話題など

わたし変わってない

なんか去年の総括でも、ここ最近のブログの内容でも、震災後わたしは変わった的なことをことさら丁寧に説明してた気がするが、そういいながら、なにか心苦しい気持ちがあった。なんかぶん殴ってほしいよ(ちょっと手かげんね)。そんなに変わってないからわたし。そんなにね。確かに、引越ししたのも、転職したのも、入籍したのも本当のことだし、まわりの環境は変えてきたつもりですけど、キホンあんま変わってない。たまにはホントのこと叩きつけたいとおもってね。たまにはおもいっきりウソのことでもいいとおもいますけど。
『ホントのこと』ってのは、いうほど容易いものじゃない。ピーズのハルくんがいうところの「サジ投げたって 何もないさ 投げれんのか わからないってのはホンネさ 」ってこと。この後半「なげれんのか わからない〜・・・」ってところが衝撃的に重要で、ことほどさように、ホントのことってのは中々深いってのか、安易じゃないってのか、やっかいなものである。
仕事がやっとこさ落ち着きはじめて振り返っておもうことは、まぁわたしはたいして成長もなく相変わらずだったってことだ。人も満足に揃ってなく、その上新しい業務をはじめていかなきゃいけない状況の中、さらに欠員が出た時は正直バンザイしそうになったし、毎日毎日が綱渡りの連続だった。状況が好転しないまま身体ばかりが疲れていき、それでも失敗出来ないプレッシャーの中あたまも廻らず視界が狭くなっていく感覚は、今までのわたしの人生の中でプレッシャーやピンチの時に味わったあの感覚そのものであり、わたしは歳をかさねて少しはタフになったと思っていたが、何だこれわたしは全然変わってないということをまざまざと思い知ることとなった。
それでもやっぱり身体が資本。みんなに気を使ってもらい、1日だけたっぷり眠る時間をもらい、おいしい物を食べてゆっくり過ごしたら、職場への行きの電車の中で急に頭が廻りはじめて、パズルのピースがハマるようにいろんなことがひらめいて元気も出てきた。そっからはもういろいろなことが好転しはじめて結局なんとかなった。あそこがターニングポイントだったな。忘年会みんないい顔してた。なんか、乗り切ったなーって感じで盛り上がった。いまのスキルは置いといて、団結力は前よりあるんぜんぜんあるんじゃないかな。やっぱり自分だけではほんとどうにもならなかったし、こうなると、今度このみんなが居なくなったらどうなるんだと想像するとゾッとする。自分だけじゃほんと無理なんだよー。だからほんとありがとー。




もし自分が今十代だったら確実にハマるだろうなと微笑ましく眺めていたら、結局今でもぜんぜんハマッってしまった。
わたし変わってない。


アンディとロックとベンガルトラとウィスキー

アンディとロックとベンガルトラとウィスキー

コトバはカガミ

言葉は暴力。忘れよう忘れようとしてもどうしても頭から離れない。なんとか無理やり剥がそうとするほうが、余計虚しくなるんだろうな。
言葉はカガミ。いつかのツケだか何だか知らないが、たぶんそんなもんがまた、巡ってきたんだろう。
人も満足に揃っていない。準備もちゃんとは整っていない。本来はおめでたい話ではあるのだが、そのことでさらに一名欠員がでた。
そんな中、明日から新しい業務がはじまる。もう待ったなし。ほぼ見切り発車のまま
残りのスタッフと、新しいメンバーでなんとかの乗り切るしかない。



わたしより随分と下の世代の人たちだが、なんとも懐かしい気分になるんだ。



ファンファーレと熱狂

ファンファーレと熱狂

人間はあたたかい

このところ忙しくて、朝から晩まではたらいて、ドロのようになって毎日帰る。気がつけばもう秋も深まって、随分肌寒くなった。始発電車は寒くて、もういちばん隅には座らない。両脇に人が座るとなんとなくあたたかく感じて、ワザと真ん中に座るようにしてる。
人間ってあたたかいんだなと、今更ながらの発見のように思うと、なんだかちょっと眠くなってきて、携帯をセットしながら
僅かながらの睡眠をとる。




スージング・ミュージック・フォー・ストレイ・キャッツ(紙ジャケット仕様)

スージング・ミュージック・フォー・ストレイ・キャッツ(紙ジャケット仕様)


いい準備

「いい準備をする」
今回のオリンピックでもそうで、最近スポーツ選手が次の試合に向けてのコメントをする時によく出てくる言葉だが、わたしが最初に耳にしたのは確かサッカーの本田選手だったと思う。もしかしたら本田選手も誰かのを参考にしたのかも知れないが、とにかく頻繁に使ってたのは本田選手だ。前回のワールドカップ前後に彼が出てきた時から、もう言ってた。わたしはこの言葉を初めて耳にしたときから、選手のコメントとして、じつにうまい言葉だと思っていたので、本田選手が試合後にこの言葉を口にするたび「またいった、いい準備!」と、口には出さずともなにか注目していた。そして最近はやはり使い勝手がいいのか、他の選手からも、そしてついに他ジャンルのスポーツ選手からもこのコメントが聞こえてきた時なんかは「でた、いい準備」と、浸透していくトレンドウォッチャーのごとくうれしい気持ちになったりもしたのだ。
それにしても「いい準備をする」とは、なんてうまいコメントを考えたと思う。ほとんど発明にちかいと思う。何がいいって、なにしろボヤっとしてるところいい。「いい準備をして、試合当日をむかえたいとおもいます」と言われると、まあ当日まで、戦術を組立てたり、必要な練習を怠らないことなんだろうと容易に想像しがちだが、じつのところ、具体的はことは何一つ言ってない。「いい準備」といっても、じっさい選手によっての「いい準備」は、もしかしたら、ちゃんと歯をみがいて布団敷いて夜11時には寝ることかもしれないし、夏になると日課になってる棒アイスをかかざず毎日1本は食べることかもしれない。さらに言うなら、偉大なる神アッラーのため、聖地メッカの方向に向けてひれ伏すように祈りつづけるかもしれないのだ。ようするに何をするのかは実際わからないわけ。言ってないから。選手側と受けて側の想像することが100パー合致することなどないだろう。それなのに「いい準備したいとおもいます」の言葉に「ああそうですか」と不思議と納得してしまう。このボヤっとした加減でも妙な説得力をもってしまう。これこそが「いい準備」というコメントの魔力だ。
だいたい「いい準備」とはいったい何だろう。そこ掘り下げなくていいって。そんな気持ちにもなってしまう。なにか人のプライベート空間に抵触するところがあり、「そこ触れなくたっていいっしょ、そっとしとこうぜ」って空気をかもしだしている。わたしにしたって、「いい準備」をした時の会議なんかは、だいたいもってうまく行かなかったためしはないし、わたしの言う「いい準備」とは、最悪の状況を想定して、不安要素を徹底的に潰しておくことだが、それは人それぞれによっていろいろあるんだろう。10人いれば10通りやり方があるかも知れない。それが「いい準備」という新鮮な言葉に、今のところ土足で踏み込むのを躊躇させる空気を漂わせている。
別にスポーツ選手は、しゃべりのプロではないし、AKBのコみたいに、選挙のたびにたたき上げで修行してきてる訳ではないから、こんな使い勝手がよくて楽な言葉があるんだから、もっとバンバン使えばいいと思うし、現にもっと使う人はふえると思う。口ベタな人なんかもっともいいコメントじゃないかと思うわけです。
「いい準備をして、ピッチにたちたいっす」
「いい準備をして、コートにたちたいです」
「いい準備をして、土俵に入りたいでごわす」
バリエーションも状況も選ばず使える。この言葉自体いまのところ新鮮さがあるので、平気でどこでも使えると思いますよ。でも間違いなく期間限定。そのうち使い倒されていて、消費されつくし、言葉自体が陳腐化した時に、その見えないバリアーあっさり破られる。「いい準備っていったい何ですか!」というクールな突っ込みがなされるだろう。(またそれ使ってるよ、しょうーもな)という空気とともに。
だからその時の為に、言いだしっぺの本田選手は、それに代わる新たな言葉を用意しておく「いい準備」をしといたら最高なんじゃないかな。
以上。

嫁の愛国心

最近この暑さで連日クーラーをつけまくっている。考えてみると毎年あついあついと言ってるような気もするが、わたしはそれでも冷房に頼るのはせいぜい2,3日くらいで、だいたいは扇風機で乗り切っていたはずだ。今年は迷うことなく冷房をつけている。住むとこが変わって参考にならないかも知れないが、やっぱり今年はあついと思うよ。玄関を出て扉を閉めると足元に蝉が仰向けでひっくり返っていた。階段を下りた先でも同じような蝉がころがってた。この蝉は自分の人生を全うしたのだろうか。わたしはどうなんだろう。朝からまったなしの灼熱の中、いつもの職場へと向かう。
わたしの嫁の興味があることは、つまるところ今、世間一般の興味があることだとわたしは思っていて、ついこの間までは、いじめについて強烈な批判を幾度となく繰り返していたが、いまはオリンピック一色に染まっている。わたしも今回のオリンピックは、重量挙げの三宅選手が悲願のメダルを取ったり、卓球の愛ちゃんだったり、水泳だったりと自分の知ってる人が活躍しているのでワクワクして観てるのだが、昨日の男子サッカーの試合も食い入るように嫁は観ていた。サッカーに関してはわたしは嫁よりは相当詳しいつもりでいたのだが、あの選手は男手ひとつで育てられたとか、あの選手は一見チャラチャラしているけど実はマジメなんだとか、どこで聞いてきたのか、マラソン解説の増田明美ようなトピックス的なエピソードネタを繰り出しながら嫁は熱く応援していた。わたしも何であれ熱く応援してくれる仲間がいるのはうれしく、あーだこーだ言いながら盛り上がった。そして終盤DFの吉田選手がヘディングで2点目を決めた時に嫁はおもわず歓喜のあまり「マヤー!」とさけんでいた。わたしもおなじく盛り上がったが、それと同時にこうも思っていた。嫁は吉田選手のことを「マヤ」と呼んでいる。わたしは吉田選手は名前が麻也だというのは知らないわけではなかったが、まさか嫁が吉田選手のことを「マヤ」と呼んでるとは思わなかった。だぶん世間一般的にも吉田選手の名前が「マヤ」だというのは周知の事実なのだろう。聞けば吉田選手はブログもおもしろくて今話題で、嫁も毎日のようにチェックしているのだという。おそらくあの吉田選手の2点目が決まったとき、日本全国の結構な人が嫁と同じように叫んだのであろうか
「マヤー!」と。
こうやって人はあらゆる情報を刷り込みをしながら、自己に内在化していくことで親しみが湧いて、はじめて日本の選手を応援できるとわたしは思っている。だからわたしは国のスポーツを楽しむ時は、わざと事前に出来るだけその選手の情報を得てから楽しむことにしている。それがわたしの楽しみ方である。わたしは知らなければ本当の意味で楽しめない。なぜならその選手をわたしが知らなければ「知らない」という距離感でいえば、わたしにとっては他の国の人と一緒になってしまうからだ。わたしは知らない人には感情なんて湧かない。ただ知らない人がなぜか日本のユニホームを着て戦っているとしか見えないからである。つまるところわたしは愛国心なんてのは、実はそんなものだと思う。
さぁ、今日はマラソンだ!


最近は、もうそれこそずっとスティーりーダンばかり聴いていて、特に2000年以降のスティーリーダンが良い。これは異論があるかと思うんだけど、むしろ2000年以降のやつの方が良くて(お互いのソロも含めて)飽きないで聴いてます(音とか含めてね)。そのスティーりーダンの「トゥ・アゲインスト・ネイチャー」も良く聴いてるアルバムだ。だけど聴いてるとどうしても最後の曲のサックスソロが長い気がして思わず突っ込みを入れたくなってしまう。たけしみたいな感じでワザと近づいてって「おめーなげ〜よ」なんて。そんなユーモアたっぷりのシャレたアルバム秘話があったらさいこうなんだけど、彼らにかぎって、まずそんなことはないはずでなのである。



Two Against Nature

Two Against Nature

バカのしびれ〜The ピーズの新作ベストによせて〜

アルキネマ

アルキネマ




徹頭徹尾のリアリズム。ひたすら「わたし」という化けの皮を剥ぐ作業。これこそがオリジナルに辿り着く唯一の方法だと謂わんばかりの表現の追及。どこまでもダメな自分。逃げたい、辞めたい、そしてついにそれすらも飽きたという。ただ、ハルはいつだって表現するときは、おのれを正直に独白するという姿勢からはけして逃げなかったと思う。それだけにわたしはピーズの音楽を聴くと、どんな軽いかんじの曲でもなにか痛いたしさ感じてしまう。切なくなる。そしてけっきょく愛しくなる。
「わたしはいつの間に、こんなかっこばかりのダサい人間になってしまったのだろう」「けっきょくわたしの本音というものは、じつはただの建前だったのではないか」
ピーズの音楽を聴いてるとそんな思いが襲ってきて、自分がはずかしくなることがある。中身はほんとにシミッたれたダサい音楽である。ただ、毎日満員電車に揺られ、週末は飲んだくれてボロボロになって帰ってくるわたしの日常を、わたしのこの現実の生活の心情を奏でてる音楽は他ならぬピーズである。
ここ最近の活動のベストアルバムが発売された。年齢をかさねて現実の深刻さはさらに増してる。20代そこそこから、彼らは誰もかなわない孤高の存在だったが、さらに純度は増している。歌詞なんかもう、そこら辺の文学づらして芸術家気取りの詩なんか軽くなぎ倒す勢いだ。高級な音楽。ピーズのイメージにはとても似合いそうな言葉ではないが、わたしにとってThe ピーズの音楽はそういう音楽である。





しびれ ねぼけ トロトロ
西の月と 沈んでこう

慣れたもんだ 笑い方 溺れ方
浮かび方

楽しいことばかり考えた
眠たいまで歩いた

ハナたらし よだり アタマ冷やし
何ちゅうツラで 帰れる日々

サッサと歩く もう手ブラだし
サッサと生きる もう平らだし

無理な穴掘りは あきらめた
死なないように 生きた

バカの知恵 バカのしびれ
しびれ・・・

しびれ ねぼけ アタマ冷やし
西の月と 沈んでこう

楽しいことばかり考えた
明けない夜を生きた
眠たいまで歩いた
          〜バカのしびれ〜





背が伸びた気がする。

この歳にして、まさに気でも違ったとでもおもわれるかも知れないが、どうやら最近わたしは背が伸びた気がする。そんな気がしてならない。普段の景色をみてもそうだし、いつも接してる人たちが何となくだが前より低く見える。だからたぶんそうなんじゃないかとおもうのだ、勝手に。ためしに嫁に聞いてみる。
「なんか背が伸びた気がするんだけど、どう?」
「あ、そうだね。そうかもー」
「でしょ!だよね、そうだよね。やっぱそうなんだよ、背が伸びたんだよ」
「あ、今日ハイヒール履いてないだけかもー」
こらこら違いますよ。わたしは確かに背が伸びた。根拠だってある。わたしが睨むに、最近やたらやってるストレッチが効いてるんじゃないかとおもう。わたしは誰にいわれた訳ではないが、今年のはじめからなんとなくストレッチをやり始め、今ではわたしの全人生の中でいちばんカラダが柔らかいという季節をむかえている。特に股関節は念入りにやっているので自信があるところだ。ストレッチといえばカラダを柔らかくするというのもあるが、筋を伸ばすという感覚もある。筋を伸ばす。そう、じっさいわたしの筋はこの半年でかなり伸びたのではないか。その影響がもろご褒美としてきたのではないか。そうだよ。そうに違いない。
そう考えるとウキウキしてくる。40も過ぎて人生の曲がり角などとっくに迎え、身体も頭も衰えるばかりであろうこの歳に、まだわたしに成長するところがあったのか。もっといえば、昔苦労して読んでいた本を最近あらためて読んでみる機会があり、前よりもずいぶん本を読むスピードが速くなった自分に驚いていたところだ。この歳になってわたしはまだまだ成長している。それがなんかうれしいんです。ちなみにわたしは実際は測ってないので、背が伸びたかはどうかはほんとはわからない。本を読むのが速くなったってのもあくまで主観だ。ちょっとは伸びたかも知れないし、事例などネットでみればいくつかそんなのもあるのかも知れない。でもわたしはそんなことは調べない。どうせ調べたってわたしがワクワクする答えなどないのだ。わたしは背が伸びた。おまけに読解力も深まった。わたしの中にある、このまぎれもない事実だけでいいのだ。すごく気分がいい。カラダがかるい。よし、テレビでもみよう。
ちなみに、この半年でわたしは背が伸びただけではなく、体重も4kgふえた。これは間違いない。それは測ったからだ。「しあわせ太りですか」などといわれそうだが、けしてそうではない。わたしはこの半年のあいだ、いつものごはんに加えてやたらと野菜を食べた。結構食べた。今もたべてる。おかげで前よりかなんか健康になった気がする。なんか突然クラ〜ッとすることもなくなった。だけどこんなに生野菜を毎日食べてると、ときどき「わたしは家畜か」とおもう瞬間もある。
夜、職場から外に出たら、なにか匂いが夏っぽくかんじた。とたんに街灯や通りの店の明りが祭りの夜店の明りのようにもおもえて、なんとなく夏を実感した。今年は築地で夏をむかえる。なんてことない、職場が築地だからだ。





ソングライターとしても、ギタリストとしても、シンガーとしても、ついでにラップも、どれもすばらしい。こんなに3拍子も4拍子もそろっている人はなかなかいないとおもう。すごく器用なところは、メロディも含めてポールマッカートニーみたいだなとおもし、そうおもうと、なんとなく顔もそう見えてきたような。


Love Is a Four Letter Word

Love Is a Four Letter Word